母の実家の話です。
この徳利にわたや(昔の文字で)とかかれています。
お酢を造って、この徳利に入れて 各家庭に届けていたそうです。
わたやの金山寺味噌は美味しいので有名だったそうです。
ぎょうせん飴は朝鮮から大豆は満州から購入し、それに麦をまぜて発酵させて麹をつくっていたそうです。
鉄道弘済会にも納めていたのですが、戦争で原料が入手できなくなり、超お堅い祖父は納得した商品が作れなくなったと、終戦前に潔く廃業届を出してしまいました。
あのまま続けていたらよかったのに、惜しいことをしたと母は時々思い出したように悔やんでいます。
母の子供の頃は、東と西にある高い蔵の天井まで年貢米がぎっしり詰まっていたとか。
でも戦後の農地改革で、大地主も持ち分七反にまで減らされてしまいました。
この家は、曾祖父が幼いころ、この家を建てていたお医者さんが、土台にお金を使いすぎたため、資金不足で手放したのを、買って建てた家です。
だからしっかりした造りです。今で築百四十年位です。
三百坪あるので、、私がこちらへ引っ越したばかりの時は家族全員お世話になっていましたが、ゆったりしていて、何の不自由も感じませんでした。
戦時中はライオン館を創った矢野さんや、母の同級生のご家族も疎開していました。
その方達は、船で志度へ荷物を運んだ夜、高松空襲があり、危機一髪で空襲を免れたとを今でも感謝してくれてます。
屋根が少しカーブしてます。意味は判らないのですが、この丸みを帯びたところが良いといわれてます。
庭には大きなナツメの木があります。私が子供の頃は実がいっぱいなり、この木に登ってよく遊んだものです。
あの頃は、スックと頼もしそうに、天に向かってそびえて立っていたはずなのですが。
今では年老いてしまい、もう休みたいのでしょうか、横に伸びてしまって、危ないので、支えで何とか持ちこたえてます。
陸軍士官学校で飛行機に乗っていた伯父は敗戦で帰宅した時、
「もう飛行機には乗れんから、ナツメの木に登ってやる!」とふてくされていたそうです。
ソテツも立派になりました。
私が一番畏敬の念を抱いているのが、この
化石です。
木が石になるなんて、一体どれほどの歳月が経ったのでしょうか?
想像もつきません。
平成十六年の台風23号の時、床上浸水になったので、その後、主に住むところだけ改築しました。
その時、普通よりは幅の広い襖に書かれている水墨画が、これからはもう手に入らないだろうと、屏風に創り直して玄関に置きました。
古い家なので、まだまだお宝が眠ってます。