父が亡くなってまる二年、三回忌の法要が終わった。
先日三越のお花やさんにお願いしてあったフラワーアレンジメントも届いた。
イメージだけを伝えてあったが、満足のいく出来栄えで嬉しかった。
いつも法事の度思うのだが、風もないのにろうそくの火が異様に動く。
父の魂が喜んでいるのだと解釈する。
涙もでないのは、私達家族の中で 出来るだけの事はやりつくしたという満足感があるからだと思う。
昨年、父の自叙伝を自費出版したが、そこに記した私のあとがきを書いてみよう。
おわりに
平成二十年一月二十八日、父は息を引き取った。
様々な体験から、死線を乗り越え奇跡的な生還を果たしては、同期の方々から
「不死身の山下」と呼ばれていた男が、遂に力尽きたのだ。
十六年間の闘病生活のうち、最後の三年間は食べ物を口から摂ることができなかった。
この飽食の時代にどんなにかひもじかったことだろう。
略
食道癌にまつわる色々な余病の併発で、苦しみ続けていた。
あの日も香川医大からの帰り道、自損事故を起こし、目撃した方が
「即死に違いない」と思ったくらい車は大破したのに、奇跡的に無傷だった。
略
その後どんどん様子が変化していき、事故から六日目に亡くなった。
凄まじいまでの地獄の苦しみを味わっていても心臓は六十代だと言われていたので
、いったい最後はどのようになるのかと危惧していたがあっけない別れだった。
私達にとっての「巨星墜つ、」だ。
略
シベリア抑留の事も、私が知る限りそのことに触れることはなかったが、
同類のいたみであったのだろうと思われた。
生涯のほとんどが苦しかったことであろう父の、一瞬だが、一番輝かしかった時代を
認めてあげたかった。
略
常に泰然としていた。どんなことを尋ねても即座に答えられる、生き字引のような人だった。
生き方は不器用だったけど、努力を惜しまず、人を妬まず、きれいに生き切った、
お手本のような父であった。