慟哭の知覧特攻

いよいよ知覧です。
道の両側に燈篭が立っています。献燈と彫ってあります。




特攻で亡くなった方の数だけの燈籠があるそうです。1036柱とか。
それを見ただけで込み上げてくるものがあります。
知覧特攻平和会館まで続いています。



あっ!父が乗っていたです。






まわり全部ぜんぶが、飛行機に関するもの、事ばかりです。
母の兄も姉婿も陸軍士官学校の飛行機乗りでした。
陸軍三式戦闘機「飛燕」は片方に200リットルの燃料タンク、もう片方には250キログラムの爆弾を積んで敵に突撃したとか。
飛行機全体からすると、操縦席はとっても狭く、これがコックピットだったんだ。
ここにいる時どんなことを考えたんだろうか?孤独ではなかったのか?






子供みたいな年齢の人たちが、将来の日本が良くなるために、犠牲になってくれたんだ、と想いを馳せると、そこから動けなくなりました。

三角兵舎
です。
映画で見たことがありますが、全くそのものです。
半分地中に埋まっています。









ここは一夜の雨露を凌げたらいいだけなので、簡素なつくりです。
明日は特攻で飛び立つ人たちが生活するので、一日、長くても(天候の加減などで)四~五日しか居ません。
ほがらか隊と呼ばれる人達も、夜になると毛布を被り、声を殺し、肩を震わせて泣き、泣いた人ほどしっかりした足取りで出ていくそうです。
今なら中学・高校生ぐらいの若者が、国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら志願し、百倍くらいの競争率で合格した非常に優秀な人達です。
操縦・整備・航法などありましたが、戦局が悪くなるにつけ、ほとんどの方が振武隊員となり、特攻に行ったそうです。
特攻と切り離せないのは、必死・決死・必沈という言葉です。
死ぬしかなかったのです。
明日を生きようとして生きられなかった人達です。
空だ男の征くところ、君こそ空の荒鷲だ
散った方の数だけの遺書も展示されていましたが、どれもこれも、達筆で文章も上手い!
そして殆どの方が、まずお母さん、母への感謝を書いてあります。






そして、後になるほど、終戦に近いほど父の同期五十七期生の方たちの写真がありました。
同じころ父は満州で、操縦を必死で教えていたのです。
父の後輩で、元衆議院議員の梶山静六氏が寄付した燈篭もありました。



特攻の子供たちが母のように慕った鳥濱トメさんの富屋食堂も資料館になっていました。









その富屋食堂のすぐ近くに流れている川に掛っていた橋です。



知覧武家屋敷の近くなのでこのような形になったのでしょうか?
亡くなった方が蛍になって帰って来たという話がありましたが、昔は裏にきれいな川があったとか、もしかしてこの川のことかなあと勝手に想像しました。



こんなに大勢の尊い命を犠牲にしたのだから、それを無駄にしないためにも、現在の日本人は誇りを持ってこの国を建て直すべきだと強く思いました。
知覧を後にしてもしばらくこの、道の両側の献燈は続きます。

僕たちを思い出してくれ、忘れないでくれと叫んでいるようです。
「必ず成功させます!」「靖国で会おうな!!」
特攻機で離陸した後、開聞岳を見て、少し降下し、翼を三度振って、別れのあいさつをし、気持ちを切り替えて敵地に飛び込んで行ったその開聞岳です。
真ん中のうすくみえてる山です。



この特攻会館にかなり長時間いました。昼食をとるのも忘れて・・・
あまりにも思い入れが強かったせいでしょうか、辛くって精も根も付き果てた感じで、近くまで来ているのに知覧武家屋敷には行く気になれず、指宿温泉に向かいました。

“慟哭の知覧特攻” への2件のフィードバック

  1. おばあちゃんさんのお父様の写真を拝見した時、「特攻隊員のお衣装だ」と
    思いましたが、教官をされていらっしゃったので隊員と教官ってやはり
    制服も違うのでは?との思いもありました。肩章とかで区別されているので
    しょうか?
    “隼”を目の当りにした時、これが我が父親が乗っていた・・・・感動だったと思
    います。
    特攻機には往きの燃料しか積んでいなかったそうです。
    想像を絶する状況ですね。

  2. バジル様こんばんわ~
    私も特攻の銅像見た時似てると思って父の写真と比べたら、全く同じに見えました。
    飛行機乗りの着るものは統一されていたのでしょうか?
    尋ねるにも伯父も皆亡くなってしまい、想像するのみです。
    父や同輩は、後輩の58期の人に教える時は非常に厳しく、特攻の方にはやさしく教えていたそうです。
    色んな事、父が無くなった後で気になりだしたけど、聞く事はできません。
    隼を見た時、写真と一緒なのですぐわかりました。
    その場所に立つとこみあげてくる、何かに衝き動かされる感覚がありました。
    終戦になったのにソ連軍の目の前で自爆した人もいます。
    父が知人に預けた遺書にも自爆する旨書いてありました。
    あの時不時着して、部隊へ帰るのが2~3日遅れたばかりに、その機会を失したのです。
    運命の別れ道ですが、シベリアへ抑留されるか、ソ連軍の度肝を抜いて自爆するか、どちらが幸せだったのでしょうか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>