今年を振り返って 7月創業塾

さぬき市商工会が主催する創業塾に参加しました。
去年からは女性が対象になり、その方が大勢集まるような気がします。

今年で何回目でしょうか?
初めての時、すでに創業していたので、私には関係ないわと思っていたのですが、講師の中に同級生の名前をみつけ、一人でも参加者が多い方がいいかな?と申し込みました。
それまで、自分の仕事に関係することにしか目がいかなかったのに、そこでは、タイムリーな話題、経済、今後の事など 未知の世界の事沢山教えていただきました。
消化不良ではありましたが、井の中の蛙ではいけないと思った次第です。
責任者である経営コンサルタントの先生が非常に熱心で、ゆくゆくは息子が整骨院の開業予定だったので、
場所の選定や、デザインなどすべて相談に乗っていただき、今では家族ぐるみでお世話になっています。
こんなに内容の濃い上質な講座、それも安いのに、参加者が少なく、勿体ないなあと思っていました。
昨年の女性限定の創業塾は盛会で、やる気のある元気な方が多く、いつの間にか仲間が出来、情報交換や食事会を兼ねて集うようになりました。
女子部と名つけました。
今年はまた新しいメンバーが増えました。
忘年会楽しみです。

合格祈願

昨日と今日、夜が明けるのを待ちかねて神社にお参りしました。
息子の国家試験ですので。
今回はお参りはもういいかな?と思ったのですが、子供の受験の度、合格祈願にお参りしていて、
これでもう最後のお願いだから・・・・とこれまでは寺院でしたが、今年はよくお世話になった
多和神社に出かけました。
この冬一番の寒さと言われてましたが、覚悟してたせいか、それほど寒さは
感じません。逆に身が引き締まる思いでした。
狛犬さんです。

百五十段位の階段を上がった所にあります。
十年位前、息子のことで悩んでどうしようもなかった時、
狛犬さんのある神社に毎日お参りしなさいとアドバイスされました。
膝を痛めて三カ月位でやめてしまいました。
そのことも懐かしく思えます。
狛犬さんから上の本殿(百段位上がります)を見上げました。

お参りして上から見下ろした景色です。

今朝は数人の男女の方が境内や、階段のお掃除をされてました。
先日息子に会った時、オイスターバーに行きたがったのですが、もしものことで体調崩してはいけないと
食べませんでした。
もう試験も終わったはずです。
早速、今朝剥きたての牡蠣を宅急便で送りました。

今年を振り返って 6月 no.2 登校拒否

私は三重県尾鷲市で生まれ、小学校2年の秋祭りの日に母の故郷であるこちらに引越して来ました。
最初の受け持ちの先生をはじめ、同級生からのいじめがありました。
転校生だから、いつまで経ってもしんまいと言われ続け、私も意地っ張りだから
そんな同級生に馴染もうとしませんでした。
いじめられてることは 親には決して言えません。
耐えて耐えて、とうとう爆発したのが、中学2年の時です。
3学期の期末試験の日から学校に行けなくなりました。
いつも頭がもやもやして、痛くて、脳波の検査も何度もしました。
目・耳・鼻・神経科 何処を診てもらっても悪いところは見つかりません。
登校拒否という言葉さえ当時は存在しなかったと思います。
為す術がなく、父の故郷の三重県に転地療養に行き、その頃伊勢神宮にお参りしました。
その時以来ですので、義兄の葬儀の直後でしたが、どうしても伊勢に行きたかったのです。
当日は土砂降りの雨でしたが、ここまで来られたことが嬉しかったです。
お陰さまでこんなに元気です、ということを報告しました。
厳密に言うと、あの後 東京の病院で、子供なので付き添いをつけてもらって入院もしました。
でも治ったかどうかはっきりしない状態でしたが、退院しました。
私をいじめた人達とは同じ高校に行きたくない。それにはそろそろ勉強を始めないと・・・・
と自覚し、欠席しながらも登校し出したのが3年の2学期でした。
周りから見ると仮病の様で、患った本人しか分らない痛みでした。
結果は第一志望校合格です。女子は私だけです。
先が読めない、出口の無いトンネルに入ってしまった状況で本当に辛かったけど、振り返ってみると
良い体験だったと思います。
あのまま順調に行ってたら たぶん鼻もちならない人間になっていたと思います。
当時受け持ちの先生も、症例も少なかったのでしょう、どう扱ったらいいのか 腫れものに触るようにしていました。
ただ、英語のE先生だけは「Yさん、どんなに辛いことでも時間が解決してくれるんよ」と言い続けてくれて
その言葉にすがっていました。
高校に入学した後は、過去の私を知ってる人はいないので、思う存分自分に素直に振る舞うことができました。
生涯の親友も何人もできました。
でも最近中学の同窓会をした時、私が登校拒否だったことを知らない人ばかりでした。
虐められたほうは忘れられないけど、虐めたほうはそれほど重く感じてないのだという事がよくわかりました。

洋服できました!

やっと完成しました。
先日の、途中の写真をアップしたブログが削除されてしまったので、出来上がりだけ見てください。

自分でも可笑しくなるのですが、どこかにフリルがついています。
これでもブラウスはシンプルにしたつもりです。
スカートもシルクでバックサテン(裏がサテン 光沢があります)です。
裾のフリルは裏と表を交互に使い、立体感をだしてみました。

無謀なことをしてしまいました。
生地はジャケット分しかないのにコートにしたため用量不足で、去年作った服の残り布を足しました。
テーマはリボンです。袖は7分丈でバルーンです。
これは久しぶりの大失敗、ミステイクです。
生地にボリュームがあるため 太って見えます。
ゆとりが少ないため前のボタンを合わせられません。
ということは寒いので、着られる期間が限定されます。
痩せなくては・・・・ このコートの出番は来るのでしょうか?
PS
昨日 雲がとってもきれいだったので写しました。
私のブログの師匠が グーグルのブログで美しい写真を沢山載せてるので 触発されたようです。
  たいや旅館・おやじだよりです。
 とても足元にはおよびませんが、載せますので 師匠見てください。
それにしてもシャッターチャンスは難しいですね。
アングルを考えてるうちに どんどん形が変わってしまいました。

これでは 私が感動した雰囲気が伝わりませんね・・
本日は失敗ばかりの巻きでした。

今年を振り返って 6月 no.1葬儀

5月30日義兄が急逝しました。
葬儀は6月3日です。
義兄は僧侶だったので、本山や他のお寺との調整もあったのでしょう。
かなり長い葬式になりました。
その間 江戸時代に建てられたという本堂を葬儀仕様に飾りつけたり、かたずけたり、来客のお相手をしたり、
夢中で過ごしました。
親戚も寺院が多いため、葬儀に出席された僧侶は50人位おられました。
圧巻でした。お坊さんの袈裟って美しいと思いました。
衣の色が、階級によって決められているのかどうかわかりませんが、カラフルで、古代の色だと思いますが、 
それぞれが微妙に異なった色合いで、不謹慎ですが、まるで平安絵巻を見ているようでした。
当日は雨でした。涙雨みたいです。

甥(義兄の長男)が着ていた袈裟衣は紫がかったグレーのような、初めて見た何とも言えない素晴らしい色でした。後から聞いたところによると、それは喪主の人だけが着る衣だそうで 素材は麻でした。
京都で注文して作っておいたそうです。
と言うことは・・・もしかして?の時に備えて早くから準備していたのだろうと、その心情を思うと
とっても切なくなりました。
生涯で2~3回 しか袖を通さないだろうと思いました。
嫁いで35年、気楽な次男の嫁でこれまで来ました。
これまでにも義父や義母の葬儀に立ち会ったはずなのに、記憶にありません。
たった一人の弟の嫁だから(主人は2人兄弟です)できるだけのことをしようと覚悟をしていたせいでしょうか
初めて知ったような、初めて聞いたような、事が沢山ありました。
私では絶対坊守にはなれないと改めて思いました。
義兄とはあまり話したことはありませんでしたが、息子の結婚式の件でお電話した時、長々と話し、出席することをとっても楽しみにしてくれてました。
それから間もなく入院したのです。
あの時が虫の知らせというものだったのかしら?と後からはそう思えました。
まだ若いのに 儚く逝ってしまいました。

今年を振り返って 5月 岳風流

父は詩吟(岳風流)の教師をしていました。
亡き後荷物の整理をしていた時、カセットテープや漢詩の参考書や、指導用の自作のテキストなど
夥しい量の詩吟グッズがあり、処分するのが勿体ない位で、父の生きた証だと思いました。
そして 詩吟での功績が認められ、宗祖の木村岳風先生のお墓に合祀されることになりました。
昨年7月の式典に手違いから参加できず 心残りだったので、思い切って母とお参りに行くことにしました。
長野県の上諏訪にある愛宕山地蔵寺の中の墓地です。
岳風先生のお墓です

この塔の中に合祀されています。

墓地とはいえ山の頂上にあり、上に行くほど急で、途中旅行鞄を放りっぱなしにして行きました。
山の中腹で農作業をしていた方に お花を分けていただきました。
「どこから来たの?香川県かね。遠いとこだね。帰りに寄んな。コーヒーでも淹れてやっからよ」
と独特のイントネーションで言って下さいました。
全く知らない方が親切にして下さり、近くを案内して下さいました。
美川憲一のお墓もありました。
タクシーも呼んで下さり、岳風記念館を訪ねて、父の自叙伝も納めてきました。
一区切りついた気分です。
ネットで調べて宿泊したホテル紅屋は 後から判ったのですが、父達が不死鳥会で泊まった所でした。

今年を振り返って 4月 水森かおり

、亡き父の残した回想記等を本に纏めて自費出版しました。
終戦前後の、当事者でなくては知り得ないことが沢山かかれてあったので、
分散しては勿体ないと、昨年6月ごろから編集にかかり(プロの方にお願いしました)、
試行錯誤の末ようやく完成しました。




これを父の縁の方達にお送りしたところ、沢山の方からご丁寧なお返事を頂戴しました。
当事者でありながら その時は前後の流れがわからなかったが、これで全体がわかったとか、
貴重な歴史資料だと、喜んで下さいました。
2、母の誕生日なので、水森かおりショーに同行しました。
 
 TVで見るより 若くて、トークもウィットに富み、ドレスも素敵でした。
 ドレスのデザインとか、素材とか 食い入るように見てしまいました。
 歌はもちろん上手です。
 私もカラオケではよく歌ってます。好きな歌ばかりでした。
 チョッピリ夢の世界を堪能した後、中村孝明のレストランで食事して帰りました。
 
 来年も、その次もずっと母の誕生日を祝いたいなあ・・・

今年を振り返って 3月 3年16組

高校の時の同窓生はかなり仲良しです。
大きな括りでは 玉翆会
ふつうは43会
クラスは3年16組でした。
有難いことに私の休みに合わせて、時々集まります。
場所は同級生の息子さんがオーナーの喰うくうです。
いつの間にか連絡網みたいなのが出来てしまい 電話だけで10人以上はすぐ集まります。
クラス会とは名だけで他のクラスの人が半分で、パーソナリティのANNRIさんも皆勤賞ものです。
職業も、地位も様々ですが、この歳になっても ○○君と呼びあえ、異性を意識することなくいろんなことを相談したり、本音で話し合える友人は貴重です。
2年11組の時クラス全員がとっても仲がよくて、その頃ついたあだ名がおばあちゃんです。
ちなみに男の子はおじさん、女の子はおばさんと呼ばれていました。

今年を振り返って 2月の結婚式」

息子が結婚しました。初めて娘ができました。




ウェルカムボードの絵は長男が描きました。
回りのプリザーブドフラワーは知人のMさん(仮屋崎さんにお花を習ってる方です)にお願いしました。
抜けるような青空でした。

上司の方も30代で若く、同級生や職場の同期の方など 皆気持ちのいい若者ばかりでした。
披露宴では親の知らなかったことが次々に暴露されました。
2年間大学の同じゼミで学びながら話したことはなかったのに、知人の紹介で知り合って10時間で結婚を決めたとか、思い通りにいかない人生だったけど、結婚により自分の人生を肯定できる様になったとか、リッツカールトンでの凝った演出のプロポーズとかetc
前日からホテルに泊まり、留袖に初めて手を通し、まるで夢のような1日でした。
式の準備には一切かかわらず、結婚式はお嫁さんのものだから、花婿なんてお添えみたいなものだから・・・
とかいろいろ聞かされていましたが、現実を目の当たりにして、静かな感動を覚えました。
派手ではないけど、凄く心に残る 温かい挙式でした。

マイ 鍼灸師

趣味と実益を兼ねて、洋服作りのこの道に入って四十年余。
肩凝りとそれに伴う不快な症状との2人3脚です。
頭痛もひどく病院で検査しても異常なしです。
大阪や高松で、中国式・台湾式・英国式etc・・の治療・エステティックサロンでのリラクゼーションなど少しでも楽になりたいと、思いつく限り試してみました。
確かに施術中は癒されます。気持ちよくて 眠ってしまいそうになります。
でも終わると全く変わっていません。どこかに良いとこないかなあと長年悩んでいました。
まさか息子がこの道に進むとは予想もしませんでした。
修行中も、練習で診てもらう度 上達してました。
十年近くの勉強を経て、開業して四年目です。
東洋医学とカイロプラクティック、それ以外にも得意分野を増やそうと今も勉強しています。
時々、施術の合間に治療してもらうようになって、肩凝りなんてすっかり忘れてました。
で、このところ間が空いてしまったので、自覚症状がひどく、肩や首に鍼を刺し、電流を流してもらいました。
憑き物が落ちた感じです。
帰宅後、「急患ですよ!」と言って治療してもらったり、旅行とかでも疲れるとその場で応急処置をしてくれたり、道具もいらないし、とっても便利です。
子育てしてきて良かった と思える瞬間です。